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僕という身体を通したもの

忍者、天真体道、リフレクソロジー、藁細工、畑、身体、生活にまつわること。他にも色々。

悟っているかのようにして

どうしようもなく何かが必要であるとき
結局のところ身近な人へと走るのだ
必要であることを餌にして
理性では帰らねばと思いながらもすぐにその場の慰めや気休め優しさに流されていく

何がよいかなどわかるはずもない
大抵歳をとるごとに悩むことは減るのだろう
仕方がないのだなんて言い放ち
恥や外聞なんて知らないのさとわざわざ言葉にしてみたり
楽しければよいと何かを置き去りにしながら
そんな風にして自分の言葉を聞く自分のことを固めていく

かくいう自分も仕方がないのだ
結局のところ答えはでないのだ
そんな言葉で自分のことを楽にして
我が儘であることを容認して
あまりにも簡単に身近な人の些細な心を踏みにじんで
相手のために誰かのためになんてことは何もしたことはないのだろう

暮らしの仕方がそれをさすと断ずることも容易くて
たしかにそれもあるのだろうけれど
だけどもそれだけなはずもなく
でも愛や思いやりなんて安直な言葉で全てを纏めようなんてことは受け止められず

結局のところ
分かっていることといえば
今 夕暮れて薄灯りの灯る部屋にポツリと座り光る画面に向かう自分だけだ

そして またもそれを物語かのようにして
何か悟っているかのようにして
小さな小さなものに悩みながら
それでいて自分の欲や業を
無責任に不確かなネットワークに放っている

呪文

旧くからの知人と
酒を酌み交わしているはずなのに

言葉はその身体をすり抜けて
能面のような白壁に染み込んでいく
お互いの言葉はただ発しているだけのようだ

何か呪文のような言葉なのだけれど
それがなにかは僕にはわからない

トーシバがどうだ
オリックスはこうだ
ユニクロはどうなった
セブンはこんなだ
スズキさんはああするさ
ナンジュウオクってなんだ

なんだかよくわからない呪文が
ぼくの耳からどこかへとすり抜けていく

なんだろうか
なんだかとてもふわふわと膨張したその呪文は

おとな

おとなのせなかをみておもったんだ

おとなっていうのはツラそうにしてる
おとなっていうのはじぶんかって
おとなっていうのはじぶんもやれてないのにぼくらにはやれっていう
おとなっていうのはぼくらのいけんをきかない
おとなっていうのはなんにもしてくれない
ぼくらのしてほしいことなどなんにもわかってない
ぼくのことなんてなにひとつわかってない
それなのにわかったつもりになってきめつける
ぜんぶだいなしにするんだ

だからぼくは
いきることはツラいことだとおもっていたし
おとなのじぶんかってにつきあわなくちゃいけなかったし
こわくてくちごたえなんてできなかったし
じぶんのことなんてはなせなかったし
はたらくことがいやだったし
おとながやらないことをしないといけなかったし
それでもできなくてつらかったし
たすけてほしくてもたすけてもらえないし
おとながきらいだったし
おとなになんかなりたくなかった

ただ
だきしめてほしかっただけなのに
ただ
よりそっていてくれるだけでよかったのに

ぼくになにももとめないで
ぼくはなにもいらないから

ぼくは、家なのだろうか

最近、身体の中のこと。
とても小さい生き物たちについて機会があり、考えた。

ぼくは、家なんじゃないだろうか。
色んな小さな生き物たちが僕の中に住んでるんだろう。
ウイルスが侵入すれば、小さな住人たちが戦ってくれる。
自分の家を守ろうと。
家に傷がつくと、修復して、より頑丈にもする。
でも、やっぱり住人たちにも寿命があって、家の土台にも寿命はあって、少しずつ衰えていく。

そんな風に考えてみれば、僕は家でもあるんだろう。
移動する生きた家だ。
小さな住人たちによって、動いている。

でも、
僕は、意思を持ってる。
僕は、感情を持ってる。

本当なんだろうか。
僕の意思ってなんだろう。
僕の感情ってなんだろう。
何が動かすんだろう。
住人たちが動かしているんだろうか。

ああ、僕は家だけど、家じゃないのか。
多分、何かの一部なんだ。
いや、住人なんだ。
地球?
宇宙?
なんだろう。
大きいような、小さいような。
大きいけれど、小さい。
言葉で表したりするものではない、何かの住人なんだろう。

それが僕の意思と思わせる。
それが僕の感情と思わせる。

ただただ、色んな命が必死に生きてる。
何かのためでもなく、ただ生きている。
もしかしたら、そんなものなのかもしれない。

ああ、小さな住人たちと話してみたい。
そしたら、僕は僕でなくて、僕であって、全てになるんじゃないだろうか。
何より楽しそうだなぁ、と思う。

触れる 解れる

あいも変わらず、ばたばたと忙しそう

お礼状を書いているみたい

あぁ、ちゃんと書くなんて偉いな、なんて僕は思う

母は、字がうまい きれいな字を書く

父のが意外と癖あったりするんだよな

 

肩が凝っているから揉んでほしい

昔からよくやってる 

僕は結構うまいらしい

他にやるやついないだけかもな

 

年老いたことを感じさせるその皮膚の感触は

それでも懐かしく温かい

 

呼吸は深くね、とか

食べるものとかも気をつけたほうがいいよ、とか

自分自身に言っている節もあるその言葉

普段ならうるさいわね、と言われるその言葉も

 

身体に触れると、不思議と優しくなる

身体に触れると、不思議とするりと伝わっていく

身体に触れると、不思議と心は解れてく

ボビー

黒くて黒くて
目がどこにあるかわからない
そんな君は

小さくて細っちくて
誰に似たのか神経質で
でも温かくて
お人形みたいで
いつも無理矢理抱っこして
いつもジタバタ嫌そうにして

身体も弱くて
誰に似たのか臆病者で
でも僕には威張って
おさんぽいくと
僕では満足しなくって
いつも座り込んだりして

そんな君も十一年も生きてきたのか
僕も二十五年生きてきたみたいだ
もうすぐ二十六年になる
五十九年も生きてきた人もいるようだ
まだまだ
もっともっと
生きてきた人もいて
八十五年も生きた人もいる
その人は終わりに向けて少しずつ準備をしてるようだ

多分だけど
全てはあっという間に過ぎていって
今とても感傷的なのも
ただ少しだけお酒が入っているだけで
目が覚めたら
何にも残っていないのかもしれないし
お別れがきても
それすら風に吹かれて
過ぎ去っていくのかもしれない

でもいま
君と話せたらなと思うこの気持ちは間違いなくて

君はいま幸せなのかい
いままで楽しかったかい
君は何を考えてるんだい
そんな風に
昔みたいに一緒に座布団の上で寄り添いながら話したい
白いものが混じった君と

早く歳をとりたいな
なんて思ってもいたけれど
少しずつ少しずつ
でも
とてもとても早く
近づいてくるお別れのことを
考えていなかったみたいだ

ああ
あの人はどこにいるだろうか
楽しくやっているだろうか
知らぬ間にいなくならないでほしい
また会いたいな

お別れは
辛く悲しいことかもしれないけれど
お別れを悲しめることはとてもすてきなことかもしれない

僕らはどれだけそんなお別れと出会うんだろう

腰パンについて

腰パンというものが昔流行っていたように思う。今もしている人はいるのかもしれない。

昔は格好いいとは全く思わなかった。
もちろん今も思っていない。
だってパンツ見えてるじゃない。

でも、最近になって思うところがある。
腰パンって、実はとっても理にかなっているんじゃないかと。

というのも、
僕はとてもキチッとした服が苦手で、首までボタン締めたりとかスーツとかピチッとしたズボンとかを着ていると大抵調子が悪くなる。
首こってきたりとか。なんか苦しくなったりとか。
だから、ベルトを締めるということも強くはしない。軽めでホントに落ちない程度 。
ピチッとした服も慣れるよ、なんて兄はよく言ってたけど、やっぱ疲れを感じるわけであんまりよくないんだなあ、と。
脱いだ時に楽になるって、そりゃ身体にいいわけないよね。

その点、腰パンはとっても楽なんじゃないかって。

もともと和服とかも帯の位置が前と後ろで角度がついていて下腹部の下に帯がくるようなイメージ、と思うのだけど(間違ってるかしら?)、お腹を圧迫させない構造なんだと思う。(重心が低いとかそういう話もあるのかしら)

その点に関して、腰パンもおんなじなんじゃないかなあと。
お腹を圧迫しないことが楽ということにもしかしたら気づいた人がいたのか。無意識にそう感じていたか。そんなこんなで腰パンが生まれたのではないだろうか。

と勝手な推察してみたけど、
腰パンはパンツのゴムが締め付けるから、50点。

ズボンもあるけど、パンツのほうが多分大事なんだ。

和装はその点抜け目がない。
ふんどしなんて素晴らしいものがあるじゃあないか。

ああ、ふんどし穿きたくなってきた。