ボビー
黒くて黒くて
目がどこにあるかわからない
そんな君は
小さくて細っちくて
誰に似たのか神経質で
でも温かくて
お人形みたいで
いつも無理矢理抱っこして
いつもジタバタ嫌そうにして
身体も弱くて
誰に似たのか臆病者で
でも僕には威張って
おさんぽいくと
僕では満足しなくって
いつも座り込んだりして
そんな君も十一年も生きてきたのか
僕も二十五年生きてきたみたいだ
もうすぐ二十六年になる
五十九年も生きてきた人もいるようだ
まだまだ
もっともっと
生きてきた人もいて
八十五年も生きた人もいる
その人は終わりに向けて少しずつ準備をしてるようだ
多分だけど
全てはあっという間に過ぎていって
今とても感傷的なのも
ただ少しだけお酒が入っているだけで
目が覚めたら
何にも残っていないのかもしれないし
お別れがきても
それすら風に吹かれて
過ぎ去っていくのかもしれない
でもいま
君と話せたらなと思うこの気持ちは間違いなくて
君はいま幸せなのかい
いままで楽しかったかい
君は何を考えてるんだい
そんな風に
昔みたいに一緒に座布団の上で寄り添いながら話したい
白いものが混じった君と
早く歳をとりたいな
なんて思ってもいたけれど
少しずつ少しずつ
でも
とてもとても早く
近づいてくるお別れのことを
考えていなかったみたいだ
ああ
あの人はどこにいるだろうか
楽しくやっているだろうか
知らぬ間にいなくならないでほしい
また会いたいな
お別れは
辛く悲しいことかもしれないけれど
お別れを悲しめることはとてもすてきなことかもしれない
僕らはどれだけそんなお別れと出会うんだろう
腰パンについて
腰パンというものが昔流行っていたように思う。今もしている人はいるのかもしれない。
昔は格好いいとは全く思わなかった。
もちろん今も思っていない。
だってパンツ見えてるじゃない。
でも、最近になって思うところがある。
腰パンって、実はとっても理にかなっているんじゃないかと。
というのも、
僕はとてもキチッとした服が苦手で、首までボタン締めたりとかスーツとかピチッとしたズボンとかを着ていると大抵調子が悪くなる。
首こってきたりとか。なんか苦しくなったりとか。
だから、ベルトを締めるということも強くはしない。軽めでホントに落ちない程度 。
ピチッとした服も慣れるよ、なんて兄はよく言ってたけど、やっぱ疲れを感じるわけであんまりよくないんだなあ、と。
脱いだ時に楽になるって、そりゃ身体にいいわけないよね。
その点、腰パンはとっても楽なんじゃないかって。
もともと和服とかも帯の位置が前と後ろで角度がついていて下腹部の下に帯がくるようなイメージ、と思うのだけど(間違ってるかしら?)、お腹を圧迫させない構造なんだと思う。(重心が低いとかそういう話もあるのかしら)
その点に関して、腰パンもおんなじなんじゃないかなあと。
お腹を圧迫しないことが楽ということにもしかしたら気づいた人がいたのか。無意識にそう感じていたか。そんなこんなで腰パンが生まれたのではないだろうか。
と勝手な推察してみたけど、
腰パンはパンツのゴムが締め付けるから、50点。
ズボンもあるけど、パンツのほうが多分大事なんだ。
和装はその点抜け目がない。
ふんどしなんて素晴らしいものがあるじゃあないか。
ああ、ふんどし穿きたくなってきた。
悲しい顔で怒らないで
子どものころ
小学生のころも
中学生のころも
高校生のころもだろうか
怒るときに泣いてしまう
ぼくはそんな子どもだった
涙はこらえるのだけれど
それでも涙がこみあがってくる
大人になったいま
そんな子どもとふれあっている
怒りが抑えられなくて
チクチクと刻まれてしまった無数の傷から
溜まってしまった何かが溢れてくる
頭は回り
口も回り
本当の感情とは置き換わってしまった言葉が並ぶ
君はとても賢いから
それでも堪らずに手が出てしまう
そんなことしたくないのに
そんなに悲しい顔で怒らないでくれ
ポロポロと涙を流しながら怒らないでくれ
君は優しいやつなのに
ぼくが泣いてしまいそうだよ
涙が込み上げてくるよ
そんな辛そうにしないでくれ
ぼくは側にいるから
臆病
マンションに住んでいたころ
彼が五つかそこらのころ
彼らは同じ部屋で寝ていた
ふたつのつながったベッドには
父と母とまだ幼い妹が
その横に敷かれた布団に兄
そして彼は両親と妹の足の下
たしかにそんな風だった
彼の頭上には布団か何かが積んであった
布団と壁の間には中途半端な隙間があった
彼の足の先にある扉から光が射し込む
それはゆらゆらと揺らめき影をつくる
彼は影を恐れ横をむくも
そこにはベッド下の闇が広がっていた
目をつぶるしかなかった
カサカサとヒトの動く音が聞こえる
音を遮ろうと布団を被るしかなかった
彼はいつも怯えていた
助けを求めることはできない
あれから二十年は経ったろうか
彼はなんら変わっていない
風がガタガタと窓を叩く
ヒトがバタバタと動く音が響く
その粗暴な音は彼の身体に
チクチクと染み込んでいく
そして相も変わらず
助けを求めることはできていない
スマホするする
あ、新しく考えが浮かんだ。
なんだか面白いかもしれない。
タイトルは、『僕は家』でいこう。
スマホの画面をポチポチと叩く。
ポチポチ?
違うな。
叩く?
違うな。
スマホの画面にスルスルと指を滑らせる。
まあまあか。
スルスルってのも、違うな。
なんだろうか。
するする、にしようか。
うん、するする、のが見てくれが柔らかい。
いや、でも何か書くのに、スマホで書く、ってどうなんだ。書いてないのにさ。
あ、見返してみると、書く、なんて書いてないな。
表現の方法なんてなんでもいいのかな。
いやいや、現実に文字を書くと、その文字の形に人が表れるもんじゃないのかしら。
というか、書くって、手を動かして書かないと、書く、じゃないのかな。
んー、調べてみよう。
僕の頭のなかは、書きはじめるといつもこんな感じだ。
いつまで経っても、疑問が浮かんで脱線して本題にたどり着かなかったり、余計な考えで発信を躊躇する。
そして、明くる日には、書く意欲すら失せる。
でも、書こうとすることが、僕の考えを膨らませているならいいかもしれない。
で、結局何を書こうとしてたっけ。
そうだ、『僕は家』だ。
あー、スマホ打つのってかったるい。
ん?打つ?
打つってなんだ?
スマホは打つものなのか?
もうおわり