木曾新滝
9月1日。
木曾新滝へ。
10月は氷が混じる木曾。
今年の最後の機会はこの一日のみ。
それなら行くしかないな~と、日帰りの滝行となりました。
とにかく美しい滝。
浅間のような豪快な滝とは違う。
3,40mほどの高さから真っ直ぐと落ちてくる滝。ところどころに虹がかかる。
滝の光景に見惚れて笑みがこぼれて、不安はなくなる。
自分の中で「よし!入るぞ!」みたいな気合もなく、自然と滝に向かっていけた。
眼鏡置いて。上着は脱いで。
近くによった時もとても冷静だったのを覚えてる。前に出すぎると落ちるし、ここからとりあえず入ればいいな、という感じだった。
しかし、物足りなさを感じて滝の芯の方へ。
浅間よりも冷たいけれど、呼吸は全く問題なし。
キーンとした感覚を抜けて、心地よく。
心地よいけれども、浅間とは違う厳しさ。鋭く刺さるように打ち付ける滝。
その中で、天真五相をしたり、天相をしたり、身体開いたりと。あんまり細かく覚えていないのだけれども。
大きくゆっくりと力を抜いて。動けば動くほど全身を打たれる。
情報が多すぎてあまり整理できていないけれども、腕全体に熱いような冷たいような感覚が通ったり、膝や足先に通ったり。
ガクガクと身体が自然と動き出し、バランスが幾度か崩れる。
10分ほどで出たけれども、少し長く入りすぎたよう。出てからもしっかり歩ける気力は残さないとなあ、と反省。
出た後、うめきと鼻水と涙が流れてきて、その後身体全身(というか腰)が痙攣するかのように動きだした。全く意識は正常でただ勝手に動き出す。多分端からみたら操り人形でガタガタと動かされてる感じなのだろう。
もちろん、寒くて震えているわけではない。
いや、寒かったけれども。笑
出来るだけ任せるも少しの驚きと恐怖で止めてしまったところがないとはいえない。
と、こんな感じの滝となりましたとさ。
基本的には木曾に入れただけで満足。
が、やっぱり泊まりでもう一度入りたかったなー、というところはあるなあ。
滝は1泊に限る。全然違う。
また来年行けたら行こう。
もっと自由に滝と遊ぼう。
そして、滝後数日は腑抜けになる感じがする。笑
わかめ体操
正式名称 「瞑想組手 わかめ体操」
天真体道の組手の一つ。
波とわかめ。
波はまっすぐ通り抜けていく。
わかめは波に逆らわない。
ふわーっと、くにゃ~っと、じゃれあうような組手。
波は、まっすぐ通り抜けていくように。
相手の身体の状態を見極めて、それぞれの身体に適した強さで怪我をしないよう、それでいてしっかり効かせてあげる。
包むような柔らかさと相手への繊細な気づかいが求められる。
わかめは、ただただ波に抵抗しないように力を抜く。なされるがまま揺れ動く。
力を抜くことってとても難しい。力の入っているところが徐々にわかっていく。
お互いに伝えること、受け入れること。
それを段々と入れ替わりながら、一体となっていく。
もともとは拳でのやり取りだけれども、そんなことを感じられる組手。
武道っていうのは、身体も精神も養うもの。
石器時代遺跡のちょっと不思議な体験
最近、人に連れられて石器時代遺跡に行った。
石器時代の住居跡で、市街地から近くて、丘の上のような場所にある。
東向きに開けていて、朝陽がなんのさえぎることもなく、当たる場所。
丘を上っていると、あれ、ここはどこだ、となるように突然に別の空間のような感じがする。
なんかいいところだなあ、と現場に着くとなんだか身体全身がぞわぞわ~となる。
今まで、そこまで身体の感覚として出たことがなくって少し驚きながらも、「ああ、ここはいいところ」という確信と喜びが出てくる。
そのあとも少し余韻が残って、泣きそうになるという。
昔の人たちの住んでいたところが住むのに適しているっていう話は聞いたことがあったけど、ああ、こういうことなのか、と腑に落ちる感覚。
各地の原住民の人たちっていうのは、まだこんな感覚、いやもっと鋭敏な感覚を持ち続けているのだろう
なあって思う。
施術中にある確信
お客様を迎える時、施術前には小さな緊張を感じる。
僕の小さな緊張と、お客様の小さな緊張と、たぶん両方。
準備をしながら、少しだけ話をする。
話ながら、施術を進めていく。
ふと会話が途切れたときに違和感なく突然やってくる静けさ。
「あ、もう話さなくていいな」
自分でも驚くほど確信としてそんな風に思う。
リフレクソロジーはお客様と完全に相対して行うから、意識的に施術中あまり顔は見ないようにするのだけど、そんな時にチラリと見ると眼を閉じてたりする。
なんだか施術してると、そんな瞬間はある。
稽古でもそういえばあるなあ、と思う。
「あれ、今どういう風に動いたっけ?」みたいなくらい無心でカチッとはまる瞬間。
土曜日のリフレサロンでは、お二人ともそんな具合で満足してもらえたようで僕も満足な1日。